それって、ホント? OSAKAフォント!
マックの標準書体に「オオサカ」と言う物があり、日本書体では他に「キョウト」などもある。
最近は見なくなったが以前は「ナガサキ」やそれ以外の都市の名前もあった。これはどの様な理由かと云うと、元々アメリカで開発されたマッキントッシュに使用されていた英文書体は開発された人の住んでいた土地の名前などをつけ「シカゴ」「ニューヨーク」などと呼んでいた歴史があった。
それで日本語フォントが積載される時にも、そのパターンを踏んだのだ。
「トーキョー」と言う書体がありそうなのに存在しないのは、暫定的に日本語で動かす為に急いで作られた「オオサカ」「キョウト」などとは別に、将来マック標準書体になる完成度の高い書体が作成されていた為に「トーキョー」の名前は開けてあったと云われているが、そのヒミツは今になっては謎でしかない。
小坂→大坂→大阪
大阪の名前の起源となる一番古いモノは『小坂』と言うもので、たぶんこれを「オサカ」あるいは「オザカ」と呼んでいたのだと思われます。
この小坂は、現在の大阪市内の中央部を南から北に向けて伸びている、上町台地の頂上付近の事を指す、ごく狭い地域の名前だったようです。この《小坂》に蓮如が石山本願寺を建立した際に、縁起を担いで大きくなるようにと地名も《大坂》へと替えられたらしいのです。(呼び名自体は変わらずオサカ、あるいはオザカ) この大坂は豊臣秀吉が天下統一を果たした際に、流通の拠点となり盛隆を極めることになるのですが、徳川の時代に首都が江戸に移ったあとも商業都市として繁栄し続けました。
しかし江戸時代も300年近く続くと、かつて都があった京の威光も徐々に薄れ、商業の街と言われた大坂の景気もしだいに悪くなってきたのです。その時、大坂の「坂」と言う字には「土に還る=消滅」と言う意味があるので縁起が悪いと言われだたのです。
そこで考えられたのが「盛ん」や「多い」と言う意味を持つ「阪」の文字で、これは江戸後半に提案され、文献の中ではこの文字を使う人も増え始めていたのです。 江戸時代が終わった時、大久保利通が大坂へ遷都しようと言う提案書《大坂遷都に関する建白書》を提出するのですが、首都に必要な施設などの不足が挙げられ、この話は却下されてしまったのです。しかし、そんな事にめげない関西パワーで「もっと盛んになるべき街だ」との願いから、明治10年に正式名称が《大阪》になったのです。
▲東大阪市にある、小坂神社
御厨(みくりや)地名の由来
『大阪府全志』によれば、当地(御厨)は古来若江郡に属し、御厨村と称したとあるそうです。延喜式の内膳司に、「造雑魚鮨十石、味塩六斗河内国江厨所進」とある『江厨』は、当地であり、村の名はそこから起こったと考えられるのだそうで、『姓氏録』河内国皇別に「江首江人附彦八井耳命七世孫木津彦大雨宿禰大確命之也」と見える『江首』もまた、当地ではないかと考えられるということです。
言い伝えによれば、文武天皇(683~707年)が吉野行幸の際、当地に立ち寄ったそうですが、当地から供膳したので、御厨の名を賜ったのだそうです。また弓削道鏡が、称徳天皇(718~770年)に行幸を願った、由義宮(ゆぎのみや・ゆげのみや)の御厨を設置された所ともいわれているということです。
幻の市
現在《羽曳野市:はびきのし》と呼ばれている市は合併により昭和32年に誕生した市です。 この名前を決める際に、色々な候補が上がったのですが直前まで決定案もなく、もめ続けていたそうです。 そこでとりあえず、市への昇格申請書類のために仮の名前だけでも付けなければいけないと言うことで、この土地が以前『南大阪町』と呼ばれていたので書類に新市名として『南大阪市』と書いて提出したのです。 そして、その市への昇格が受理され市政がスタートしたのが昭和32年1月15日だったのですが、その市政スタートの当日にやっと新しい市の名前が『羽曳野市』に決定したために、改正申請をし翌日から羽曳野市としてスタートを切ったのです。
つまり『南大阪市』と言う地名は昭和32年1月15日のたった1日だけしか存在しなかったのです。